こんにちは。ミニマリスト・コピーライターのゆきたかです。
最近はじめた電動歯ブラシのサブスクにハマっています。
家の近くにあるお寺の坐禅会に行ってみたいのですが、感染者が増え中止になっています。
坐禅というと「禅」の修行です。
ミニマリズムと大きく関わる禅に興味があります。
特に、仏教をきちんと学んだこともないですが、禅の本を1冊読みまして。
スティーブ・ジョブズも生活や仕事に、禅を取り入れていたのは有名な話ですね。
この本を読んで、ほぼ意味わかっていないのですが、なんか日常に活かせそうなことを自分的拡大解釈しました。
Kindle Unlimitedだと30日間無料で読めるので、試してみてください。
(もし、Kindle端末お持ちでしたら、ダウンロードしてずっと読めます)
この本は、2もあって、僕は今2の途中です。
※ただの一般人の都合のいい解釈です
と注つけます笑
坐禅とは?
まず、「禅とは?」という質問に対し、一言でなんて言えばいいのかわかりません。
(そもそも、一言で言える概念かわかりません)
少なくとも、本が難解すぎて、僕が腹落ちしていません。
なので、「坐禅とは?」について考えます。
坐禅(ざぜん)とは写真のように、あぐらが進化した感じの座り方のアレです笑
禅における修行です。
そんな坐禅とは何かについて自分なりの解釈を一言で言うと、
「ただ坐禅をするために坐禅している」
と答えます。
…
意味わかんないですよね?
さらに噛み砕くと
「何かを得るという目的で坐禅という修行を行うのではなく、坐禅をすることそれ自体を修行として坐禅する」
ということです。
修行というと「何か目的を達成するためにするもの」という印象があります。
しかし、禅では、「坐禅は坐禅」という捉え方をするようです。
よく「目的化してしまう」という話がある
ここからは、かなりの過大解釈となります。
坐禅というのは、あぐらの進化版みたいなカタチで坐禅ですが、何に対しても言える。
つまり、何をやっていても「何かを目的にそれをしないで、それ自体をやる」というのが禅です。
坐禅じゃなくて、もう少し自分たちの生活に落とし込んで考えてみます。
すると、
- 高校、大学受験
- 就職活動
といったものが浮かんできます。
世の中では、よく
これらがダメだ。
そういう風潮があると思います。
- 名門大学に入ること、そして、そのための受験勉強は“手段”であって“目的”ではない。
- 大企業に入るのは、何か自分が成し遂げたい大義(目的)の“手段”でしかない。
ということでしょう。
という気持ちもありつつ、これらの意識高い考えは禅的“ではない”となります。
「名門大学、大企業に入ることを目的としろ」ということでもありません。
では禅思考だと、どのようにそれらの時期を過ごす?
ただ、受験勉強しているその日は、受験勉強を満喫すること。
(満喫、楽しむ、ただ過ごすとか)
僕の解釈だと、そこに「苦しい気持ちがないこと」と考えます。
なんか、名門大学に入ることや、大企業に勤めること、その先の自己実現を目的とすると、その過程って、“修行とか我慢して過ごす時間”ぽくなるのじゃないかなと思います。
「〇大学に入るために、いま我慢する」
「△社の選考に進むため、寝る間も惜しむ」
こうなっては、その過程の時間を“苦しかった”と感じちゃうんじゃないかと。
もちろん大学に入りたくて勉強するし、就職したくて就活します。
でも、先のこと考えすぎないで、とりあえずその日いい感じに過ごす。
ただ受験勉強した結果が、名門大学入学にすぎない。
ただ就職活動頑張った結果が、大企業からの内定にすぎない。
と結果論でしかないと考えます。
こういう禅思考になれたら、毎日もっと楽になる気がします。
できてないけど。
禅的に毎日を過ごしたい
だから、
「大学受験機は本当にしんどかった」
「寝る間も惜しんで就職活動に勤しんだ」
「若い時に辛抱しないと、成長しない」
こんなこと言っている人たちには、禅的ライフいいなあと思ってる僕は、いま共感しません。
もちろん、大きな目的があるのはいいことだと思います。
しかし、そこで“その過程は、目的じゃなく手段”主義になると禅的ではないというだけ。
いい悪いより、ぼくは禅的な方がいいなあと最近思っています。
今、仕事でそんな思考になりきれてないので、できるように考えます。
ただ言えるのは、優秀な人(世の中的に優秀な人)は大半が、目的じゃなく手段主義です笑
僕は優秀な人にはなれないようです。
今日もお読みいただきありがとうございます。
↓ブログランキング、クリックで応援いただけますと、たいへん励みになります!
↓他の記事も是非!